姫路城を建てたのは誰?築城の歴史と関わった武将たちを徹底解説!

歴史・文化
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日本で最も美しい城のひとつ、姫路城

その白亜の外観から「白鷺城(しらさぎじょう)」とも呼ばれ、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

しかし、「姫路城を建てたのは誰?」と聞かれると、意外と知られていません。

実は、姫路城は 一人の武将が築いたものではなく、時代ごとに異なる人物によって発展 してきました。

最初に砦を築いたのは 赤松則村(1333年) で、本格的な城を築いたのは 赤松貞範(1346年) です。

現在の壮麗な姫路城を形作ったのは 池田輝政(1601年~1609年) で、さらに 黒田官兵衛や豊臣秀吉、本多忠政 などが関わっています。

この記事では、姫路城を築いた武将たちの歴史と、それぞれの役割 を詳しく解説します。


現在の姫路城を築いたのは誰?

池田輝政の大改築(1601年~1609年)

現在の姫路城を築いたのは、江戸時代初期の武将 池田輝政(いけだ てるまさ) です。

彼は徳川家康の命を受けて、1601年から9年の歳月をかけて大規模な改築を行いました。

池田輝政の改築のポイント

  1. 五重七階(地上六階・地下一階)の大天守を築く

    • 現在の姫路城のシンボルとなる大天守は、五重七階(地上六階、地下一階)の構造 で、当時としては画期的な設計でした。
    • 天守の内部には、急な階段や武者隠し(敵を待ち伏せする場所)など、戦時を意識した構造が採用されています。
    • 白漆喰を使った壁 が特徴で、後に「白鷺城」と呼ばれるようになりました。
  2. 防御構造の強化

    • 城内の通路を 迷路のような構造 にし、敵が侵入しにくい仕組みにしました。
    • 「くの字」に曲がる門や、複数の堀を配置し、敵の進軍を妨げる構造に。
  3. 城郭の拡張

    • 城の敷地を大幅に広げ、約233ヘクタール(東京ドーム50個分) もの広大な敷地を持つ城となりました。
    • 三の丸、二の丸、本丸といった区画を整備し、大規模な城下町の発展を促しました。

姫路城のその後 – 江戸時代から現代へ

本多忠政による改修(1617年)

池田輝政の死後、姫路城は 本多忠政(ほんだ ただまさ) に引き継がれました。

本多忠政は 徳川家康の重臣・本多忠勝の子 であり、幕府からの信頼が厚い武将でした。

本多忠政の改修のポイント

  1. 西の丸の建設

    • 池田輝政時代には存在しなかった 「西の丸」 を新たに建設しました。
    • 西の丸には 長局(百間廊下) と呼ばれる大規模な建物があり、大奥の女性たちの住まいとしても使用されました。
  2. 三の丸への本城・武蔵野御殿の建設

    • 城の防御力を強化するために、三の丸の区域に 本城(武蔵野御殿) を建設しました。
    • これにより、城の中心部分の機能が向上し、幕府の管理下での城運営がより強固なものになりました。
  3. 城下町のさらなる発展

    • 交通網を整備し、姫路城を中心とした町の発展を促進しました。
    • 城下町の商業が活発になり、姫路は西日本の重要な経済拠点へと成長しました。

本多忠政の改修によって、姫路城は 江戸時代を通じて維持される堅牢な城 へと進化しました。


まとめ

姫路城を築いた主要な武将たち

武将名 時代 主な功績
赤松則村 南北朝時代 1333年に砦を築く
赤松貞範 室町時代 1346年に本格的な城を築く
黒田官兵衛 戦国時代 城の要塞化
豊臣秀吉 戦国時代 1577年に天守を築く
池田輝政 江戸時代 五重七階の大天守を築き、姫路城の基盤を完成
本多忠政 江戸時代 西の丸や武蔵野御殿を建設し、防御力と機能を強化

おわりに

現在の姫路城は、日本の歴史を体感できる貴重な文化財です。

その美しさだけでなく、多くの武将たちが手を加え、進化し続けた歴史 を知ることで、より一層その価値が感じられるでしょう。

もし姫路城を訪れる機会があれば、ぜひ 「この城を築いたのは誰か?」 を思い出しながら、歴史のロマンを感じてみてください!

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